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厨房機器屋オヤジの日記



 
 

 
  【第2回】ガンスモーク 2005/2/21
 
 

 思い出せば幼い頃より父と二人暮しの私でしたが、何時も我が家には猟犬が居りました。昭和の30年頃の話です。 当時に血統書は付いていたのかどうかは判りませんが純血のオレンジ(白地にオレンジ色の斑点模様です)のポインターでした。戦争が終わってまだ10年しか経っていなくて何故そんな犬がいたのか今考えましても不思議ですが、当時はまだまだ食料事情の悪い頃です。獲れた雉や鴨は貴重な蛋白源だったのでしょう、ご近所に差上げると大変喜ばれたものでした。

  ハンターとは現在もそうですが自分の女房の誕生日を忘れる事は有っても大事な猟犬の誕生日は覚えておりまして、とかく大事にするものです。ご多分に漏れず父もそうで、子供の悪口を言われても笑っておりますが、こと自分の犬の悪口を言われましたら大喧嘩になるのが昔のハンターでした。

 その父も母と同じく早くに亡くなりましたが、私の父の思い出は何時も家では犬の世話ばかりしている姿か、もしくは猟場を銃を手に、颯爽と風の様に犬と共に歩く後姿でした。昔は今と違いまして狩猟シーズンも長く、毎日が猟の様な父でした。 今となれば何時、親父は仕事をしていたのだろうと思うばかりです。そんな父が子供ながらに猟場では光って見えた思い出が今回のお話です。

 当時、私の家の近くに今の京都府立植物園が有りまして、アメリカの進駐軍(占領軍)が駐屯しておりました。
その裏手(現在は北山通りと言う名でちょっと洒落た町並みになってはおりますが、小さな小川が流れておりまして鴨がおり、北に向かって遠く山裾まで続くフィールドは良い雉猟場でした。夏の夜などはその小川で蛍取りなどをしたものです)で或る日の午後に、父は犬を連れまして猟をしておりました。30分ほどで二つ獲れまして犬を笛で呼んでおりましたら大きな米兵がウイリスのジープに乗ってやって参りまして父のショットガンを取り上げました。警察と違いまして彼らは何の権限も無いのですが、駐屯地の塀の裏で大きな銃声がするのが駐屯地周辺の治安上許せなかったのでしょう。何やら抗議をしていた父でしたが当時の進駐軍に逆らえる状況では有りませんでした。

 その日の夜に父は我が家で、遊びに来ていた猟仲間に昼の出来事を話して怒っておりましたが、仲間の米屋の主人曰く「以前に同じ様な事で鉄砲を取り上げられた人がいたが、絶対に返してはくれないみたいだ」などと言うものですからますますテンションを上げてぼやいておりました。ところが三日ほど経ちまして警察官が米兵を我が家に案内して参りまして、「なにか鉄砲を返したいのと、あとなんか話が有る見たいやで。何をいっとんのか判らんからワシは帰るわ」と警察官は帰ってしまいました。あとに残された父と私と二人の米兵でしたが、自分の鉄砲を持って来たから返しに来たのに違いないとばかりに黙って鉄砲だけ受け取り、父は奥に引っ込んでしまいました。そのあと米兵は一生懸命何かを話しておりましたが父は取り合わず、仕方なく米兵たちは犬舎の犬に向かって、「ホアッチョネイー!ヘイ!リー、リーカモン」と相手をしまして帰りました。今思いますと日本で言う太郎、花子、ポチの様な犬の代表的な名前が向こうではリーなのかなと思ったくらいリーを連呼しておりました。ちなみに我が家の愛犬の名前は(エス)でした。父曰く「アルファベットのSの字の様に前を狩って行くからエスだ」とこんな調子です。

 その翌日にまた同じ二人の米兵が、今度は英語の解る警察官と共にやって参りまして、「今石さん、この人らは昨日の続きらしいが、鉄砲を返しに来たのでは無く、我々を猟に連れて行ってくれ。そうすれば鉄砲を返しても良い。その取引をしに来たのに鉄砲だけを反対に持っていかれたと言うとりますわ、どうしはります」奥から出てきた父の手には、昨日返して貰ったと思い込んだ銃が有りました。「これを持って帰って貰おうか」の一言でした。

 その日の夜に今度はこれも猟仲間の酒屋の亭主がやって参りまして、「今石さん、今日な進駐軍がやって来てな、あんたとこの帰りらしいがラムネを二人で6本も飲みよったが丁度その時に倅がおってな、英語で話を聞いたんや」と切り出しました。 その内容は、自分たちは郷里では何時も猟をしていたが、今は猟銃は持ってきているが犬が居ない、ところが、この前に猟銃を没収した親子連れが純血のポインターを持っていたと司令官に報告したら是非ともその犬を連れて猟に連れていって欲しい、そのかわりにお礼として装弾をプレゼントすると司令官が言っている。勿論没収した銃も返す君たちからもよく説得して欲しい、との事でした。

 この頃のショットガンの弾はみな自分たちで一発づつ作っておりました。薬莢だけが有って、火薬や雷管、鉛弾などは自分達で調達して来る訳ですが、なにぶん物資の無い時代ですから鉛弾などは西陣織りの織機に使うおもりの鉛の塊をわけて貰ってハサミで小さく切って使用しておりました。ところが米兵がプレゼントしてくれます弾は装弾(レミントンやウインチェスターといった大きな銃メーカーが工場で生産した、製品として出来上がった弾)なのです。雨に濡れても平気で不発も無く、それは見た目も素晴らしい物でした。それを一人に16ケースも(一箱に25発ですから400発)くれるとの事ですから大変です。米屋の親父や酒屋の主人が連れて行ってやろうやと父に頼むのも仕方の無い事ですが、なにせ野戦帰りの父ですから中々「うん」とは言いません。それどころか「ジュネーブ条約かハーグの陸戦協定か知らんが、おおよそショットガンで人を撃つ事は禁じられているはずだが米国は平気で野戦で使っている。あんな野蛮な連中と何で大事な猟を一緒に行かなあかん、人間の住んでいる所に平気で原爆を落とした奴らや、それも2発も」などと喚いておりましたが、のちになって調べてみますと朝鮮戦争やベトナム戦争でも、はたまた今回のイラク戦争でも米国は野戦でショットガンを使用しています。やはり戦争に負けた事が無く、戦勝国よりの処罰や裁判などを経験してない為もあるのか、昔から他国には色々な縛りをかけるが自分はやりたい放題の為に近年は世界的に批判を浴びる米国の姿が当時の父の批判にも当てはまります。

 結局のところは猟友の「装弾が貰えるから行こうやー」にほだされたか、銃も返して欲しかったのかは判りませんが、後日に司令官を含む米兵4名と父と米屋と酒屋の親父たち合計7名、それに2頭のポインターとついでに当時6歳の私です。今は京都国際会議場が有ります宝ヶ池より岩倉地区にかけましての猟行ですが、当時はジクジクした汁田で足首より深く湧き水が張り、非常に歩きにくい猟場でした。鉄分も多い為、赤い水も湧いておりまして白い猟犬などは走っておりますとすぐに真っ赤のドロだらけで赤犬の様な有様でした。しかしそのお陰でゲームは雉以外にも鴨やシギが多く、放された猟犬も疲れを知る事無くヒートしておりました。米兵達もたまに獲物が獲れると小躍りして大声で喜んでおりましたが撃っても滅多に当らず、弾数だけを鳴らしておりましたが日本では当時としましては珍しいリピーター(先台を前後して装弾を繰り出し、連発で撃てる銃)のイサカやウインチェスターのM12などを持っておりました。M12などは7発も装填されてますが一発も当りません。父などは案内している立場ですから自分達は撃つのを遠慮しておりましたが夕暮れ時に猟犬がポイントしまして大きな雉をフラッシュさせました。どう言う訳か米兵はそれを見ているだけでしたので父は古いサイドバイサイド(水平二連銃と言いまして左右に銃口が並ぶ二連発です)の長い銃身をゆっくり送り、 ドン!の一発で雑巾落としでした。すかさず田舎なまりの「ナァーィシューゥッ」と米兵が叫びます。少し照れながら父は銃を折り空薬莢を引き抜き、手で持っておりました。

 父の銃は米兵の持つリピーターの様に空薬莢がポンポンと勝手に排出されません。また米兵の様に薬莢を捨てて行く事が出来ません。手詰めですからまた持って帰り、この空薬莢で弾を作らなくてはならないのです。抜いた直後は紙巻製で焼けているので冷えるまでポケットに入れられないのです。撃ったばかりの空薬莢は父の軍手の上でまだ硝煙を上げておりました。父は振り返り、後ろで立って見ている私に無言でそれを見せます。「見ていたか」とばかりの得意満面の父です。子供ながらに私も父の喜ぶ姿が嬉しいのです。そのあとには私から見て輝くばかりの父と司令官とが握手をしましてその日の猟は終るのですが、父の手の平の空薬莢から昇る硝煙の臭いが、少し照れた様な父の横顔と共に今では懐かしい思い出です。

 後日に父は「アメリカは嫌いだが、一人一人は中々気持ちの良い連中だ」と米兵との猟行は半年ほど続いておりましたが、間もなく進駐軍自体が本国に帰ってしまう際に、米兵の持っておりましたウインチのM12を譲って貰い、永らく使用しておりました。現在は私が形見代わりに使っております。使い古されたリピーターガンですが幼き頃の父の姿や愛犬たちと硝煙の臭い、私のこれまでの消える事のない父や猟や犬の思い出の始まりがここに有ります。

 
 
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